吉田松陰
天保元年(1830)~安政6年(1859)
幕末の尊王思想家。幼くして叔父の吉田家を継ぎ、少時より藩校明倫館で家学の兵学を教授し、その才能を嘱望された。11歳のとき藩主の面前で『武教全書』を講じ称賛を得た。
兵学者として九州、江戸、東北と日本全国を遊歴(生涯の行程は13,000キロ)し、見聞を深めるとともに、宮部鼎蔵や佐久間象山をはじめとする多くの学者や憂国の志士と交わり、尊王攘夷思想を深めていった。
嘉永6年(1853)6月黒船を眼前に見て、広く世界を探索することを決意し、門弟の金子重之輔とともに安政元年(1854)3月、ペリー艦隊で密航を計画するが失敗。幕府に自首して江戸の獄につながれた。その後、萩の野山獄に移され、さらに自宅に幽囚されたが、野山獄での獄中教育の中断を惜しむ周囲の配慮からやがて松下村塾を主宰して子弟を教えた。
門人の個性を重視し、世界情勢を念頭においたきわめて実践的な教育を行い、死までのわずかな期間に、高杉晋作、久坂玄瑞、前原一誠、品川弥二郎、山田顕義、伊藤博文、山県有朋など幕末期から明治時代にかけて活躍した逸材を輩出した。
安政の大獄で江戸に送られ、安政6年(1859)斬刑に処せられた。年30。
吉田松陰肖像(松陰神社蔵)
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