大村益次郎
文政7年(1824)~明治2年(1869)
幕末・維新期の近代的兵制の創設者。大阪の緒方洪庵の適塾に学び、わずか1年半で塾頭に進んだ。
嘉永6年(1853)伊予宇和島藩に招かれて兵制改革、砲台の築造、軍器の製造、造船などに従事した。
安政3年(1856)藩主の参勤交代に随い、江戸に赴いて鳩居堂を開塾、また幕府の蕃書調所教授方手伝となり、翌年講武所教授に任ぜられた。
万延元年(1860)蘭学者青木周弼の勧めで萩藩に抱えられ、兵学を教え、兵制改革に携わった。
慶応2年(1866)4月三兵(歩騎砲)教授役兼軍制用掛に登用され、毛利家全体の軍事に関わる最高指導者の地位につき、四境戦争では石州口総参謀として幕府軍を壊滅させた。
その後の鳥羽伏見の戦い、上野彰義隊討伐、奥羽・北越の平定などでの数々の成功は、周囲の信頼を信仰に近いものにまで高めた。
明治2年(1869)兵部省新置の時、維新後兵部大輔に任ぜられ、軍政改革を実施したが、京都の旅籠で守旧派浪士に襲撃され、大阪の病院で死亡。年46。
大村益次郎肖像(山口市歴史民俗資料館蔵)
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