久坂玄瑞
天保11年(1840)~元治元年(1864)
幕末の長州(萩)藩士、尊王攘夷派の志士。高杉晋作と並び松下村塾の双璧といわれる。松陰は「久坂玄瑞、防長(長州)年少第一流人物、固より亦天下の英才かな」と評している。
薩摩、土佐、水戸藩の志士らと交流周旋し、尊王攘夷の急進論者となり、藩論を尊王攘夷の方向に統一するよう努力した。また、英国大使館の焼き討ち、下関の外国船砲撃に加わった。
文久3年(1863)9月政務役に任命され、藩政の要路に立ち、京と山口の間を往復した。折から藩内には武力上洛論と割拠論の対立があり、前者に圧されるまま、元治元年(1864)出動の長州藩兵を率いて洛南の山崎に布陣。武力入洛には慎重論を唱えたが大勢に押され越後、会津、桑名、薩摩諸藩兵と堺町御門で戦い、流れ弾を受けて負傷し、鷹司邸内において寺島忠三郎とともに自刃した。年25。
久坂玄瑞肖像(山口県立山口博物館蔵)
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