伊藤博文
天保12年(1841)~明治42年(1909)
明治時代の政治家、初代の内閣総理大臣。松下村塾で吉田松陰に学び、木戸孝允に従って尊王攘夷運動に参加し、文久2年(1862)12月には、イギリス公使館の焼き討ちに参加するなど急進派として活動。
文久3年(1863)3月、志道聞多(井上馨)、山尾庸三、野村弥吉(井上勝)、遠藤勤助とともに、ロンドンに留学し、以後開国・富国強兵論に転じた。
翌文久4年(1864)4月四国連合艦隊の下関攻撃計画を知り、6月志道と二人で帰国し、高杉、志道とともに連合国との講和に尽力した。
その後、高杉晋作の長府功山寺挙兵に参加するなど木戸・高杉を助けて武力討幕運動に積極的に参加した。
明治以後は、新政府の要職を歴任し、初代の総理大臣、枢密院議長、貴族院議長などをつとめた。
伊藤博文肖像(山口県立山口博物館蔵)
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